名古屋高等裁判所 昭和26年(う)345号 判決 1952年2月29日
控訴人 名古屋地方検察庁検察官検事 羽中田金一
被告人 林忠雄
弁護人 大野正直 森健
検察官 寺尾樸栄関与
主文
原判決を破棄する
被告人を罰金二千円に処する
右罰金を完納することができないときは金四百円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する
訴訟費用は全部被告人の負担とする
理由
本件控訴の趣意及びこれに対する答弁は夫々検察官提出に係る控訴趣意書及び弁護人大野正直竝びに同森健連名提出に係る答弁書の各記載を引用する
仍て原判決によれば原審は本件公訴事実に対し労働基準法第五十四条第一項所定の設備とは原動力、動力によつて運転する産業用機械及び製造、加工、運搬、貯蔵、移転用装置例えば金属延圧、鋳造用機械、紡織機、木工用機械、化学機械及び装置、土木用機械が之に含まれるのであるが本件において被告人が湯沸器の様に冷水を炉の余熱で温水にしてこれを硫酸水の中に入れるに使用する為に単に鉄材を焼く炉の余熱を利用する目的で炉の上に設置したものの如きは前段の設置とは言い難く結局労働基準法第五十四条第一項所定の届出を要する設備とは前示の如き大規模のものをいうのであつてあらゆるものを届出させる趣旨ではない而して本件湯沸器は被告人方工場と同一作業をする鈴秀工業株式会社に設置してあつたのを外山政次に於て同一の設計にて製造して設置したもので右鈴秀工業株式会社に於ても何等届出を要しないものとして届出をなさないばかりでなく労働基準監督署員が臨検する都度之を実見しているが何等届出を求めたこともなく被告人も又従つて何等届出の要なきものと確信して届出をしなかつたのであつて本件の如き湯沸器の設置は前示説明の様に労働基準法第五十四条第一項の事業場の設備の変更とはいい難いばかりでなく労働基準監督署員が不問に附していた点から見ても偶々災害があつたからとて被告人に対してのみかかる届出遅滞の責任を問うことは法の趣旨に反するし更に本件湯沸器が蒸汽罐に準ずるものとしても伝熱面積が〇、八平方米内径二五ミリメートルの大気に開放せる蒸気管を有しているから労働基準法第四十二条労働安全衛生規則第二百二十六条の規定に反するものとも認められないとの理由を以て被告人に無罪の言渡をしているのであるが凡そ労働基準法がある一定の事項について届出又は認可を要するとするのは労働者のためその作業過程等において生ずべき有害、危険に対し予防的措置を完うし以てその安全と衛生とを保持しようとするにあることはその立法の趣旨から考えても明かであつて同法第五十四条第一項に届出を要する所謂設備の設置乃至その変更もその趣旨に沿うてこれを理解すべきであり従つてその届出を要する場合は普通に設備の設置乃至その変更と思われる一切の場合をいうものとはなし得ないが原審のようにその規模の大小によつてのみその届出の要否を決定すべきものとすることは誤であるとせねばならない昭和二十四年六月二十一日附労働省労働基準局長の労働基準法第五十四条の届出についてと題する通達二によれば同法条第一項の「設備」とは原動力、動力によつて運転する産業用機械及び製造、加工、運搬、貯蔵又は移送用装置をいう趣旨であつて例へば金属圧延、鋳造用機械、紡績機械、木工用機械、化学機械及び装置、土木用機械等がこれに含まれるとあり或は原審が右の「動力によつて運転する」との制限を製造、加工その他の装置に迄も及ぶと解し従つて所謂設備は大規模のものに限ると解したとも見られるのであるが右の「動力によつて運転する」とは文理解釈上産業用機械のみに附せられた制限であることが明かであり且つ検察官論旨のように動力によつて運転するのでもなく且つその規模は大きくないにしても爆発や有毒瓦斯発生等労働者の安全衛生のため予防的の監督を要する固定的装置等の多いことを考えても届出は大規模の場合に限るとするのは失当であり又その届出が労働者の安全衛生の見地から考慮されているものであることは右通達五の(イ)においてもこれを窺うに難くないのである
次に原審が鈴秀工業株式会社に設置されていた湯沸器と本件被告人方湯沸器(高さ直径夫々約二尺四、五ミリの銅板を電気溶接したもの)と同一構造であつたとする点についても原審認定のように本件湯沸器は外山政次が鈴秀工業株式会社の湯沸器の構造を参考として製造したことは知り得るが原審鑑定人和田米助の鑑定の結果、蟹江留吉の労働基準監督官に対する供述調書、外山政次の労働基準監督官竝びに検察事務官に対する各供述調書及び当審における証人外山政次の供述によつて明かなように本件湯沸器の蒸気管は内径一九ミリメートルでコツクによつて密閉し得る装置となつているのに反し鈴秀工業株式会社の湯沸器の蒸気管は内径二五ミリメートルの大気に開放せられ密閉し得る装置がなくその両者を同一なりとするのはその湯沸器の内部における蒸気の圧力を大気の気圧以上に高めうるか否か即ち爆発の危険率において重大な差異のあることを看過するものであつて鈴秀工業株式会社がその湯沸器について届出をせず又は労働基準監督署員がその届出を督促しなかつたということは本件湯沸器の届出義務に影響のないこととせねばならない而して更に本件湯沸器は炉の余熱を利用するものであることは争のないところであるが一件記録上明かなようにその炉から数間離れた箇所に存する硫酸槽及び石灰槽の温度をたかめ硫酸等の凝固を防ぐために蒸気を発生しこれを蒸気管で右硫酸槽及び石灰槽へ導入する装置となつているもので単に炉そのものの一部分という様なものではなくこれと別個の所謂加工装置であり固より大規模なものでもなく又動力によつて運転するものでもないが右の如く密閉装置を有しよつてその内部の圧力を大気の気圧以上にたかめうる結果前掲各証拠によつて外山政次がその取扱方に注意を要望していたことが認められる様に災害発生を伴う爆発の危険を有する装置としてその設置は労働基準法第五十四条第一項の設備としてこれが工事着手十四日前までに届出を要するものであつたことは明かであるとせねばならない
以上説明のように論旨は理由があり原審判決には判決に影響を及ぼすこと明かな法令適用の誤竝びに事実の誤認があつて刑事訴訟法第三百七十九条によつて破棄を免れない。
而して本件は一件記録及び原審竝びに当審において取調べた証拠によつて直に判決し得られるから同法第四百条但書に則つて更に判決する
(事実)
被告人は当時七、八名の労働者を使用し常時三馬力以上の原動機を使用し鋼材の引抜加工をしている名古屋市熱田区古新町一丁目十番地所在林製鋲株式会社名古屋工場の工場長として同工場の管理監督の権を有するものであるが昭和二十四年五月頃同工場内にその作業行程の必要上即ち鋼材の引抜加工に必要な硫酸等の温度をたかめるために蒸気を発生しこれを蒸気管で硫酸槽等へ導入する高さ、直径夫々約二尺で三方コツクによつて密閉し得る蒸気管を備えた湯沸器一台を設置したものであるが事業場における設備の設置についてはその工事着手前十四日前までに所轄労働基準監督署長に届出つべきに拘らずその手続をなさなかつたものである
(証拠)
一、労働基準監督官に対する蟹江留吉の第一、二回供述調書
一、検察事務官に対する蟹江留吉の供述調書
一、労働基準監督官に対する外山政次の第一回供述調書
一、検察事務官に対する外山政次の供述調書
一、当審における証人外山政次、同松田信之、同松永茂及び同杉原晶の各供述
一、原審第一回公判調書における被告人の供述記載
(適条)
労働基準法第五十四条第一項第百二十条労働安全衛生規則第五十五条第一号罰金等臨時措置法第二条第一項
刑法第十八条
刑事訴訟法第百八十一条第一項
(裁判長判事 河野重貞 判事 山田市平 判事 小沢三朗)
検察官の控訴趣意
原審判決には事実の誤認あり、該誤認が判決に影響を及ぼすこと明かである。
即ち、原審判決は被告人が管理監督している林製鋲株式会社名古屋工場に於て湯沸器を一台設置し、以て、事業場の設備の変更をし乍ら、之が届出をしなかつたとの本件公訴事実につき、右湯沸器が労働基準法第五十四条第一項所定の設備とは認め難く、右湯沸器と同一設計のものを設置した他の工場に於て、労働基準監督官が之を実見し乍ら、何等届出を求めていないから、本件被告人に対してのみかゝる届出遅滞の責任を問うことは法の趣旨に反するとの理由の下に被告人に対し無罪の言渡をされたものであるが右認定は原審に於て取調べられた左記の各証拠を検討すれば、その誤りなることは、明かである。原審判決は労働基準法第五十四条第一項所定の設備とは、原動力によつて運転する産業用機械及び、製造、加工、運搬、貯蔵、移転用装置を謂う趣旨であつて例えば金属圧延、鋳造用機械、紡織機械、木工用機械、化学機械及び装置、土木用機械が之に含まれるのである。本件に於て、被告人が設置した湯沸器の様に、冷水を炉の余熱で温水にし、之を硫酸水の中に入れるに使用する為に単に鉄材を焼く炉の余熱を利用する目的で炉の上に設置したものの如きは前段の設備とは云ひ難い旨判示しており右の見解は、おそらく弁護人が弁論要旨に於て引用している昭和二十四年六月二十一日附労働省労働基準局長の労働基準法第五十四条の届出についてと題する通達(別紙の通り)にその根拠を求めたものと思料されるが、右見解は同通達を、全く誤解しており到底承服し得ないものである。右通達中の「動力によつて運転する」との条件は産業用機械に関するものであつて、製造、加工、運搬、貯蔵又は、移送用装置は、動力によつて運転するものに限らないことは、文理上、当然なるのみならず諸種の化学工場に於ける爆発性物質有毒ガス等の製造或は貯蔵の固定的装置で動力によつて運転されることのないものにつき届出をせしむる必要の当然なることに鑑みるも疑う余地はない。然れば、製造、加工、其の他の装置につき、届出を要するか否かは、その災害発生の危険性の有無によつて判断さるべきである。然るに、本件湯沸器はパルプによつて密閉し得られ、爆発の危険性を有するものであつたことは蟹江留吉の労働基準監督官に対する第一回供述調書中第九項第十四項の記載、同人の検察事務官に対する供述調書中第四項第六項の記載、外山政次の労働基準監督官に対する供述調書中第六項第十項第十二項の記載により明かである。而して本件湯沸器は鋼材の引抜加工用の硫酸を温める為、工場内の炉の上に設けられた装置であり、之が爆発するときは作業中の工員の生命、身体に危害を及ぼす虞のあることは疑の余地なく、現に之が爆発により、工員一名が災害死したことも記録上明白であり、斯る有害危険なる装置に当つては設備の変更として届出せしめ監督官庁をして、災害予防の見地より、之が検討の機会を得しむる必要のあることは、当然であるに拘らず本件を之に該当せずと軽々に断じ届出の要なしとする判旨は絶対に承服し得ない。
次に原審判決は本件湯沸器と同一構造のものが鈴秀工業株式会社に設置されているのに之を実見した監督官が届出を求めなかつたと判示しているが右鈴秀工業株式会社に設置された湯沸器は内径二十五粍の大気に開放せる蒸気管を有し(和田米助の鑑定書)比較的安全と認められるに反し、本件湯沸器の蒸気管は内経十九粍で其の上パルプによつて、大気を遮断して密閉し、内部の圧力を大気以上に挙げ得るものであることは外山政次の前記供述調書により明かである。尤も同人は公判に於ける証言に於ては蒸気管のパルプはつけなかつた様に思うと曖昧な供述をしているが、蟹江留吉の前記供述調書中蒸気管のパルプを常時開けておくようにと再三外山より注意を受けた旨の供述記載及び本件湯沸器爆発の原因が蒸気管を密閉したまゝ加熱したことによる以外、常識上考え得られない点に鑑み右証言は措信し難く本件湯沸器は重要な部分に於て、鈴秀工業のそれと異るのであるから危険性の少いと認められる鈴秀工業の湯沸器につき仮に監督官が届出を求めなかつた事実があるとしても被告人に対し本件湯沸器設置届出の懈怠を寛恕するの理由とはなり得ないと謂うべく、此の点原審判決は、証拠の検討頗る杜撰で、到底納得し得ない。
更に右の如く鑑定人和田米助の鑑定は被告人の設置した本件湯沸器に対しては全く援用し得ないのであつて、本件湯沸器は前記の如く、蒸気管(経十九粍)のパルプを閉めれば大気を遮断し、大気に開放した蒸気管(内経二十五粍以上)を有するものとはならないから労働安全衛生規則第二百二十七条第二項には該当しないものと解し得られるのであつて、然れば、本件は同法第四十二条、同規則第二百二十六条の違反とも認められるのである。
以上摘示した如く原裁判所は事実を誤認して無罪の判決を言渡したもので該誤認が判決に影響を及ぼすことは明かであるから破棄さるべきものと信じ控訴を申立てた次第である。
(別紙)
労働基準法第五十四条の届出について 昭和二十四年六月二十一日 基発第六三六号
労働省労働基準局長
各都道府県労働基準局長宛
労働基準法第五十四条第一項に定める届出についてはその具体的手続を労働安全衛生規則第五十六条を以て規定しているが法施行の円滑な運営並びに届出事務の簡素化の趣旨に則り爾後左記の如く取扱うことに決定したから了知せられたい。
記
一、労働基準法第五十四条第一項に定める事業の決定は昭和二十三年基発第五一一号通牒「労働基準法第八条の運営について」及び同年基発第七三七号通牒「労働安全衛生規則の施行に関する件」中「第五十五条関係」によること。
二、労働基準法第五十四条第一項の「設備」とは原動力、動力によつて運転する産業用機械及び製造、加工、運搬、貯蔵又は移送用装置をいう趣旨であつて、例えば金属圧延、鋳造用機械、紡織機械、木工用機械、化学機械及び装置、土木工事用機械等がこれに含まれる。
三、労働安全衛生規則第五十六条に定める届書、摘要書及び附属書の提出については、当該事業の建設物、寄宿舎その他の附属建設物、又は設備の一部を設置し、移転し又は変更しようとする場合にはその部分についてのみ労働安全衛生規則第五十六条に定める届出をすれば差し支えないこと。
四、労働安全衛生規則第二編第十一章に規定する内圧容器又は同第四編第五章に規定する軌道装置のみを設置し、移転し又は変更しようとする場合における労働安全衛生規則第百六十六条又は第四百十五条に定める第五十六条の届書とは様式第十五号のみをいう趣旨であること。
五、前記三及び四にいう建設物、その他の附属建設物(但し、寄宿舎を含まない)又は設備の一部を増設し、移転又は変更しようとする場合でも左の各号の一に該当する場合には、労働基準法第五十四条第一項にいう届出をなさしめるに及ばないこと。
(イ)「建設物又は附属建設物」の当該建築面積が三十三平方米以下であつて、当該建設物内に当時十人以上の労働者を、就業させない場合、前記二の設備を有しない場合又は労働安全衛生規則第五十五条第三号にいう(イ)乃至(ワ)の業務が行われない場合。
(ロ) 労働安全衛生規則第四編各章に規定する汽罐、特殊汽罐、揚重機又はアセチレン溶接装置の各設備(移動用を含む)の場合。
弁護人の答弁書
一、本件物件は労基法第五四条第一項所定の設備ではない。
(一)同条所定の設備とは次の通り労働省労働基準局長が定めている。労働基準法第五四条の届出について(昭和二十四年六月二十一日基発六三六号労働省労働基準局長――新労働関係法令集(1) 三一六頁の一六七所載、新日本法規出版株式会社発行)
二、労働基準法第五四条第一項の「設備」とは原動力、動力によつて運転する産業用機械及び製造、加工、運搬、貯蔵、移転用装置をいう趣旨であつて、例えば金属圧延、鋳造用機械、紡織機械、木工用機械、化学機械及装置、土木用機械が之に含まれる。
本件物件が右に該当しないことは極めて明瞭である。この定義又は例示から見るも「設備」とは相当大規模のものが想定せられ本件物件の如く単純に余熱を利用し湯を沸かすのみで機械では勿論なく、物の製造、加工、運搬、貯蔵、移転用装置でもないものは設備に該当しない。
(二)更に前記基準局長は右基発六三六号に於いて次の通り定めている。
五、前記三及び四にいう建設物その他附属建設物(但し寄宿舎を含まない)又は設備の一部を増設、移転、変更しようとする場合でも左の各号の一に該当する場合には労働基準法第五十四条第一項にいう届出を為さしめるに及ばない。
(イ)建設物又は附属建設物の当該建築面積が三十三平方米以下であつて当該建設物内に当時十人以上の労働者を就業させない場合、前記二の設備を有しない場合又は労働安全衛生規則第五十五条第三号にいう(イ)乃至(ロ)の業務が行われない場合。
(ロ)労働安全衛生規則第四編各章に規定する汽罐、特殊汽罐、揚重機又はアセチレン溶接装置の各設備(移動用を含む)
右によれば労基法第五十四条第一項の届出は建設物についても或る一部のものには必要なく又労働安全衛生規則の適用を受ける汽罐でも届出を求めない場合がある。然るとき本件物件の如き労働安全衛生規則の適用がない物件の届出の要なきことは明瞭と信ずる。
(三)検察官は鈴秀工業株式会社に設置されたものと異ると主張するが本件物件は外山政次が同一物を製作したもので何等異らない。又鑑定当時に於ては同会社は当初設置したもの(即ち被告人と同一のもの)を取壊し相当大規模のものを設置していたのである。被告人工場のそれは極めて小さくこの点からするも届出の要はない。
二、本件物件は労働安全衛生規則の適用なきもので届出を要しない。右規則第二二七条に該当し該規則の適用を受けない。元来届出の立法趣旨は右規則による監督を確保するためであり此の規則の適用なきものに届出の要のないのは言を俟たない。(鑑定人和田米助の鑑定書参照)
以上何れの点からするも本件は控訴棄却せらるべきと信ずる。